大地の子
         93/9 記す

  中国残留孤児の波乱に富んだ物謡
            山崎豊子著
     文芸春秋全三巻

 作者山崎豊子は八年の歳月をかけ、
三年の現地取材を行って、この大作を
完成しました。
取材にあたっては胡耀邦総書記と会
って許可を得ています。その許可が出
るまでは取材の壁はきびしかった。
「それがわが国の官僚主義の欠点だ、
必ず改めさせるから十年がかりでも書
くべきだ。中国を美しく書かなくて結
構、中国の欠点も暗い陰もかいてよろ
しい。それが真実ならば、真実の中日
友好になる」という胡耀邦総書記の言
葉で全ての会見がスムーズに行った、
と書かれています。
 しかし一九八九年に胡耀邦総書記が
死んでからは取材の門は再び閉ざされ、
著者は今後二十年はこのような取材は不
可能だろうと言っています。

 主人公は終戦時八才で、満州北限の
土地から五才の妹の手を引きながら逃
げるところで、ソ連兵による日本村全
員の殺害が起こり、お爺さんや母も目
の前で殺され、恐怖のあまり全ての記
憶を失う。
やがて妹とも生き別れ、ある教師に
育てられることになる。与えられた名
は”陸一心”。

 育ての親、陸徳志は貧しい暮らしの
中でも一心を大学まで進学させる。
その過程でも一心は日本人という
「出身階級」ゆえに苦しく辛い人生が
続く。
学校での社会の授業は日本軍による
残虐な中国人への弾圧の想い出を中心
に進められる。
一心は出身階級ゆえに友達から殺さ
れかかったりもします。
また校庭をネクタイを着けて行進す
る共青団にもなかなか人れない。
しかし一心は大学を優秀な成績で卒
業する。卒業間際に同じクラスの高級
幹部の娘”丹青”から愛されるが、口
づけを交わした後彼の出身を聞いた丹
青は「あなたが日本人と解っていたら、
愛など抱かなかった、許せないわ」と
言って逃げていきます。
そして一心が入った北京鋼鉄公司で
文化大革命が始まる。
現在でも中国では高卒以上の学歴が
あれぱ知識階級・エリートです。当時
はその知識階級が主として狙われてい
たようです。一心は出身階級がタンア
ン(档案:個人管理表)に「日本人」と
記入されているため、余計狸われたの
でしょう。変電設傭の破壊を計画した
という、えん罪をつけられて極地の労
働改造所へ飛ばされます。
そこでの過酷な労働が上巻にびっし
りまとめられています。
江河の氾濫を防ぐために、身体で堤
防の代わりをさせられます。
しかしそこで彼は社会主義祖国の建
設という呼びかけに応えて帰国した日
本の東京工業大学を卒業した中国人に
日本語を習います。ひらかなを毛沢東
語録の裏表紙に書いたのを見破られて
死刑にされるところを、古代中国の文
字だと言い逃れて九死に一生を得ます。
一心の所在を突き止めた父徳志は、
周恩来の管轄する直訴機関に三年問に
亘って、えん罪をはらしに長い行列に
混じって通い詰めます。
その列の中には幹部に強姦され自殺
した娘の遺体を抱えてテントで直訴を
求める母親が出てきます。遺体は腐っ
て異様な臭いが漂います。
その甲斐あって一心は父徳志と再会
します。

 物語の後半ほ、中国が文化大革命を
終了して、四つの現代化を押し進める
ために日本から近代的な製鉄所を買い
取るところです。
 小説のスケールは大きく、主席や政
界のトップがほとんど登場しその私生
活まで描かれます。

いよいよ上海にその製鉄所が建設される
ことになり、現地の日本事務所責任者
が、中国側の通訳の一心と対立しなが
らも、実は深い縁に繋れていることが
解っていきます。

 さて、一心は労働改造所で親切にし
てくれた「月梅」と結婚しますが、彼
女の看護婦としての仕事を通じて、一
心の実の妹「あつこ」と対面が可能と
なります。そこの所を少し詳しく紹介
しておきましょう。

 まず一九七六年に残留孤児を訪ねる
運動が初めて行われて、日本の訪問団
が中国で出会った男性孤児の話。
「先生、僕らは公安に選ばれた恵まれ
た孤児です。貧しくて、小学校にも行
けず、自分の名前以外に字の書けない
文盲や、思想のたち遅れている孤児は
会いに来たくても、ここに来られな
いのですよ」
それから二年後にいよいよ「あつこ」
に出会って彼女の戦後の苦しい生活が
語られます。
「線路沿いに洗面器一つを持って乞
食をしながら何日も歩いた。そしてト
ンヤンシ(息子の嫁にするために買っ
た娘)として今の家に来た。明くる日
から畑で働いた。学校へは行かしても
らえず読み言きは出来ず、電気も無く、
水のない村故遠くの共同井戸まで行く
のは辛かった。農閑期には薪集めをさ
せ、割り当ての量が少ないと雪の中で
も放り出され、豚の糞の着いた藁中で
足を入れて暖めた。

 そして十四才になったとき、とうも
ろこしが背丈ほどになったとき素っ裸
の息子に手込めにされた。トンヤンシ
は手込めにしても仕方ないと継母に言
われ逃げ出すと捕まって丸裸にされ混
棒でたたかれた」
彼女は五人の子どもを生み、生んだ
明くる日から野良仕事に出かけた。産
婆も呼ばず糸は自分で喰いきった。
生まれた子は次々と死に、一人だけ
残ったが知恵遅れの子だった。やせ細
った身体に無理がたたって腰痛に苦し
むあつこは村に来た巡回診療団にも出
かけられず、畑に出かける。
彼女の畑は人民公社の畑ではなく自
留地のせいか、まともな耕作機を使わ
ず、一頭の牛さえ使わず親子四人の労
力で畑を耕している。
「その姿は解放前の奴隷の小作そのも
のだった」
それは北京から汽車で二時間の河北
省の生活である。
奇しくも「あつこ」の臨終に一心は
実の親と対面します。

 中国最大の製鉄所建設の途中でも、
一心は出身階級故に辛い目に遭います。
それは丹青の夫が一心の重要書類を
盗み、それがために一心は再び内蒙古
に左遷されます。
丹青の夫は、彼女の親の地位を利用
しようとして、彼女と結婚するのです
が、このような青年が文化大革命の頃
にわんさと生まれたそうです。
小説の最後には、日本の実の親と二
人で、党の高級幹部しか味わえないよ
うな三泊四日の三狭下りの旅を味わい
ます。それは一九八五年のことです。
_
 すばらしい中国ならではの景色に囲
まれた中で実の父が言います。「これ
からもおまえの将来は(出身)故に何
が起こるか解らない。そして私は独り
身で寂しいから、日本へ帰ってこない
か」それに対し一心は旅の最後に答
えます。「私はこの大地の子です」

さてこの物語りは、読んでいてはら
はらし、また涙なしには先へ進めない
感動の連続ですが、実にいろいろなこ
とを考えさせてくれます。.

 私の場合は「階級的立場」という言
薬でした。文化革命の頃、この言葉一
つの使い分けで知識人・技術者がどん
どんと殺されたり、辺境へ送られます。
 そもそも日本でもマルクスを語る人
達は階級的立場を重要視します。その
立場でその人の行動や思想が決定づけ
られるかのような概念として使われて
います。労働者階級という言葉は、正
義の根本かのような位置づけがありま
す。平和主義者や、反戦論者はそれ以
外からは生まれないかのような神懸り
的な分類です。ところが意見が違う人
に対しては、直ぐに階級的立場が変わ
ったと言い合います。つまり日本でも
階級的立場は簡単に変えられてきたの
ですが、「マルクスの理論で運用」さ
れる中国では、裁判所の手続きなしで
「階級的立場」を書き換えることで死
刑にできます。昨日まで国家の主席だ
った人が突然敵階級になり死刑です。
具体的な事実で人間を判断すること
なく、大きな概念で人間を評価してし
まうことの恐ろしさ・むなしさを痛感
しました。
そしてもう一つの読後感は、中国人
達の日本軍の侵略への民族的な巨大な
怒りを、残留孤児たちが全てわが身に
被ってきたということを感じました。

 残留孤児たちは他国の中でどんな味
方もなく、ただひたすら嵐の通り過ぎ
るのを身を屈めて待つかのようなやり
方で今日まで生きてきているのではな
いでしょうか。
 それに対して私達は、侵略を行った
側の人間は、多くの残留孤児を侵略地
に残しながらこれまで何をしてきたの
かという想いが、この長い小説を読み
ながらずっと心に重く引っかかってき
ました。残留孤児の問題はその家族の
問題ではないということをこの物語は
訴えています。残された人達が想像に
絶する苦しみを味わうのは当たり前で
す。その苦しみは中国人が苦しい生活
を強いられる限り今後も続くのではな
いでしょうか。対策はいろいろあると
思いますが、具体的に考えたいという
気持ちです。

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